昭和20年7月、福井市が空製を受けて市内の繊維業者は壊滅的な打撃を被った。
 幸いにも丸岡地区は空襲は免れたが、ようやく戦争の後退症から立ち直ろうとしたときに思わぬ大災害が発生した。マグニチュード7,3度を記録する大地震に見舞われた。
 震源地であった丸岡地区の細巾業者の殆ど全部が家屋や工場が倒壊または焼失するという大災害を被り、家族や従業員が家屋の下敷きになって死亡した同業者もかなりあった。
 しかし、災害救助法の適用、都市計画申請、復興資金貸出、など適切な行政措置が取られ被災住民の災害復興の意欲も旺盛で意外に早く立ち上がった。
 《当時を回顧し柳沢正一氏は次のように語っている。》
 「その頃、格子リボンが流行し大変順調に生産していました。人絹糸などは高価な闇値で買い入れ、百ポンドで12万円の相場だったと思います。 しかし、調子の良かったのも半年で、地震で火災は免れたものの全壊で惨憺たるものでした。
 折れた織機の立木などの木部は、城の上り口の仲本さんに修繕してもらい、金属部分は駅前の森永鉄工所で溶接して案外早く織り出すことができました。
 しかし、格子リボンは下火になり、ジャガードを上げてガロンを2、3年織っていましたが、売れゆきが悪くなり、その反面織マークの注文が多く出てきました。
 私が復員し、昭和22年春にリボン織機で別珍を織り始めたのが細幅業の第一歩でした。
 糸繰りした木枠を自転車に載せ、南川さんの整経機をお借りして整経させてもらい、管巻きは自転車のリ一ムを利用した手巻きで、右手で回し左手でアガキを取って巻いていました。 織機は一段十巾三丁抒の框を改造したもので、一日一回はタテ糸がきれ、毎日糸を入れるのに苦労しました。」
■ 丸岡における織マークの沿革─
京都の西陣で製造を学ぶ
寺岡氏と胡蝶ネーム製造所
細巾織物のルーツは明治末期
福田恭治氏の細幅織機製造
丸岡細巾マーク織物組合の結成
織マーク工業組合の認可
戦時統制によリー県一組合に
福井大地震で壊滅的な打撃
■ 織マーク業界の歩み─────
アメリカから大量の織マークの注文
細巾業者が大同団結し『危機突破大会』
オリンピックマークの受注経緯
輸出織マーク検査基準を制定
業界の結束を強めた織マーク連合会
調整組合が発足し過当競争を防止
織機買上げ、共同廃棄事業
昭和53年時の織ネーム業界のビジョン策定
紋紙工程のコンピュータ化研究
「原着糸」の共同購入
標準色の一括加工および販売事業
画期的な高速織機
「ニセ商品の織マーク」事件
高品質な「越前織」のブランドをめざす
少数激戦、まさにサバイバル時代
紋紙リーダーの導入と設備リース事業
振興開発グループの発足
ポリエステル原着糸(FS糸)の開発
インターネットによる情報の収集・発信

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