戦後、丸岡の細巾業界にアメリカから大量の注文が舞い込んできた。
 当時、織マークの注文は百ダース単位が普通で五百ダース、千ダースは大口だった。ところがアメリカからの注文は何十万ダースという天文学的数字で、とても丸岡の全業者が受けても応じ切れない注文である。
 商社では全国の織マーク産地に発注した。
同時に南アメリカ、カナダあたりに輸出する織マークなどが大量に注文され、バイヤーが何人も丸岡にやってきた。
関西、中京などに織マークを扱う中小の商社、問屋が続出し30年代の織マークブームの先鞭を付けた時期であった。
 原糸などはその頃では、レーヨンが中心で絹糸が二割ぐらいあり高級品向で、輸出物は白地に黒、赤、黄で水車、フクロウ、ジャンプなどのブランドマークを織った2色程度の単価の安いものであった。
織機はまだ半木半鉄の5尺4寸巾の力織機を使用していた。
 日本からの商品輸出用として防縮加工表示のサンホライズマークも内需品として当時は大量に注文を受けている。
■ 丸岡における織マークの沿革─
京都の西陣で製造を学ぶ
寺岡氏と胡蝶ネーム製造所
細巾織物のルーツは明治末期
福田恭治氏の細幅織機製造
丸岡細巾マーク織物組合の結成
織マーク工業組合の認可
戦時統制によリー県一組合に
福井大地震で壊滅的な打撃
■ 織マーク業界の歩み─────
アメリカから大量の織マークの注文
細巾業者が大同団結し『危機突破大会』
オリンピックマークの受注経緯
輸出織マーク検査基準を制定
業界の結束を強めた織マーク連合会
調整組合が発足し過当競争を防止
織機買上げ、共同廃棄事業
昭和53年時の織ネーム業界のビジョン策定
紋紙工程のコンピュータ化研究
「原着糸」の共同購入
標準色の一括加工および販売事業
画期的な高速織機
「ニセ商品の織マーク」事件
高品質な「越前織」のブランドをめざす
少数激戦、まさにサバイバル時代
紋紙リーダーの導入と設備リース事業
振興開発グループの発足
ポリエステル原着糸(FS糸)の開発
インターネットによる情報の収集・発信
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