戦後、織マークは空前の輸出ブームで大きく実績を伸ばすことができた。
 丸岡で生産された繊マークは世界各地に輸出されたが、中でもアメリカ向け輸出が圧倒的に多かった。
そのような中、かねて米国で日本から輸出した織マークが市場価格を無視してダンピング価格で取引されている噂は耳にしていた。
 昭和36年5月、「米国に於てのダンピング提訴」という対米問題が産地にまで汲んできた。
 織マークがダンピング問題を起こすのは、国内商社が産地に不当な低価格で製造させているからだ、という認識が組合員の間に当然出てきた。
 しかし、これは製造価格アップには波汲せず、逆に輸出織マークの検査基準が強化され、昭和39年5月には検査基準を定める省令が厳しく改正された。

 業界の結束を強めた織マーク連合会
 昭和36年、当組合の呼び掛けで開催した『危機突破大会』を契機として丸岡地区だけでなく広く石川、福井の業者が大同団結して結成された「北陸織マーク協同組合連合会」の役割は大きい。
 特に、製品値上げ交渉については、商社と積極的に懇談会を設営し、交渉に出向いた。
 しかし、こうした値上げ交渉は何時の場合もすんなり相手が了解して決まることは少なかったが、原価計算をもとに詳細な経費増加の根拠を具体的に示して理解を求めた。
 昭和38年4月、織マーク連合会は『即時3割以上の値上げ』の文書を作成し関係取引先に配布したが、足並みが揃わず役員はその対策に頭を痛めた。
 また、不況克服のため業界が一致団結し、昭和39年12月には翌1〜3月に5日間の「同盟休機」と、一割の生産調整を行なうため規模別に織機の「自主封緘」の要請を実施することを決めた。
 さらに昭和41年9月には「北陸繊マーク不況危機突破大会」を開催、連続3日間の一斉休機、休機監視本部の設置、関係商社に適正価格取引の実施要請、従業員の休業補償、週休制・操業時間の完全実施などを決議し、不況打開策を積極的に推進した。
 一方、取引商社にも上記の一斉休機の止むなきに至った事情を訴えて理解を求めるとともに、基準単価表を作成し値上げ実施と取引条件の改善を強く要望し、暫時一斉休機の断行を書面で予告した。
■ 丸岡における織マークの沿革─
京都の西陣で製造を学ぶ
寺岡氏と胡蝶ネーム製造所
細巾織物のルーツは明治末期
福田恭治氏の細幅織機製造
丸岡細巾マーク織物組合の結成
織マーク工業組合の認可
戦時統制によリー県一組合に
福井大地震で壊滅的な打撃
■ 織マーク業界の歩み─────
アメリカから大量の織マークの注文
細巾業者が大同団結し『危機突破大会』
オリンピックマークの受注経緯
輸出織マーク検査基準を制定
業界の結束を強めた織マーク連合会
調整組合が発足し過当競争を防止
織機買上げ、共同廃棄事業
昭和53年時の織ネーム業界のビジョン策定
紋紙工程のコンピュータ化研究
「原着糸」の共同購入
標準色の一括加工および販売事業
画期的な高速織機
「ニセ商品の織マーク」事件
高品質な「越前織」のブランドをめざす
少数激戦、まさにサバイバル時代
紋紙リーダーの導入と設備リース事業
振興開発グループの発足
ポリエステル原着糸(FS糸)の開発
インターネットによる情報の収集・発信
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